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PARFUM
次の任務までの僅かな休暇。
ジュリアンはローザリアの街を何という用事もなく歩いていた。
異国の地では特に親しくしている者もない。
仲間はそれぞれに休暇を楽しんでいる。
いつもなら自分を誘いに来るホープも、今日は義妹ルイセの買い物に付き合ってやるのだと言っていた。
ルイセは小さくて可愛らしくて、いつも子犬のようにホープにまとわりついて慕っている。
本人はとても一生懸命だけれども、頼りなくて心配で守ってあげなければという気にさせられる。
女の目から見ても愛くるしい少女だ。
ホープも可愛くて仕方がないのだと思う。
自分にもあんな妹がいたなら、きっとどんなわがままも訊いてしまうのだろう。
少女らしい少女。それは当たり前でごく普通のことだけれども、ジュリアンには許されないことだった。
ジュリアンに『少女』の時は存在しない。
いや、『少女』であることを自ら止めた。
ルイセはそんな自分にはなかったものを持っている。
だからだろうか、ルイセの愛らしさに無性に惹かれることがあった。
ジュリアンのプラチナブロンドの髪が風になびく。
颯爽と街中を歩く美しきナイトは注目の的だ。
すれ違う少女達の漏らす溜息は、もっぱらその戦神への憧憬の念が込められている。
ジュリアンがちらりとそちらに目をやると、ルイセぐらいの歳の少女達が夢見る瞳でジュリアンを見ている。
ジュリアンが視線を外し通り過ぎると、途端に少女達のきらびやかな声が響き、麗しきナイトへの熱き想いが語られるのだった。
ジュリアンの視線の中に、少女達への羨望があるなどとは、思いも寄らぬことだったろう。
ジュリアンはふらりと商店街を歩きながら、女の子で賑わう店先をそれとなく覗いてみた。
特に買う物があるわけではない。どんな物が並んでいるのか見たかっただけだった。
指輪、ブローチ、ペンダント…。ジュリアンは少し前の事を思い出す。
(グランシルでプロミスペンダントを買ったこともあったな…。)
ハンドバッグ、ハイヒール…。ジュリアンの表情が揺らぐ。
(これは私には無用な物だ…。)
口紅、マニキュア…。ジュリアンは伏し目がちになった。
(使い方すら知らないな…。)
そんなことを考えていたとき、横の店の店員がジュリアンに声をかけてきた。
「お兄さん、どうだい?今日はいい剣が入ってるよ。」
ジュリアンは顔を上げ店員を見た。にこやかな顔の店員が剣を2,3本ジュリアンに示してみせる。
ジュリアンは自嘲気味の笑みを浮かべて答えた。
「いや、間に合っている。」
ジュリアンの涼やかな声が少し寂しげだった。
今の自分に似合うのは、誰が見ても剣と鎧だ。
そしてそれを選んだのは自分だ。
アクセサリーを外し、ドレスを鎧に着替え、花を剣に持ち替えた。
自分の唇を染めるのは口紅じゃない。
自分の爪を染めるのはマニキュアじゃない。
敵の紅い血だ。
その世界に入る決心をしたときから、女としての物は全て切り捨てた。
それを後悔したことなどない。
むしろ今の世界に自分の生きる道を見いだし、剣を握る自分を誇りにさえ思っている。
なのに何で今更、これらを物欲しげに眺めているのだろうか…。
ジュリアンが立ち去ろうとすると、今度は今覗き込んでいた店の店員が声をかけてきた。
「彼女のプレゼントでも探してるのかい?だったらこれはどう?」
「いや…そういうわけじゃ…」
ジュリアンは適当にあしらおうと店員を見た。
そしてその手にしたものに、しばし見入ってしまった。
店員の手にはクリスタルのガラス瓶。
緑の房が付いている。
太陽の光を反射させ、クリスタルの中の液体はキラキラと輝いている。
…それは香水の入った瓶だった。
これほど今の自分に似合わないものはない。
今の自分に似合うのは血の匂い、死肉の匂い、戦場の土埃の匂い。
そしてこれほど今の自分に必要ないものはない。
戦場で無用な香りをさせるなど御法度だ。
クリスタルの汚れなき輝きが、今のジュリアンには眩しすぎて、思わず目を細める。
それでいて香水瓶から目を離せずにいた。
そこにあるのはもう決して自分の手に入らぬ物。
自分が触れてはいけないもの。
自分が触れれば汚してしまう。
そしてそれに触れることは、今の自分の生き方を否定することになるのではないだろうか。
そんな気さえする。なのに心惹かれ触れてみたい衝動に駆られるのだ。
(なぜだろう…。今まで一度だって、そんなこと思ったことなかったのに…。)
ジュリアンは自分の心に湧き起こった思いに戸惑う。
戦いの中にあってこそ、今の自分は輝く。
確かに今は終わりの見えない戦いだが、それに疲れて逃げたいと思ったことなどない。
なのに、とうに無くしてしまったものを取り戻したいと思っている自分がいる。
ただ、なぜそう思うのか、何を取り戻したいのか、それはジュリアン自身も分かってはいなかった。
「どうこれ?他にも種類があるよ?彼女はどんな香りが似合う娘?」
香水を見つめていたジュリアンは、店員の声でハッと我に返る。
「…すまない。香水はつけないんだ。」
ジュリアンはやんわりと断りを入れると、これ以上何か勧められる前に店を後にした。
歩みを進めながらジュリアンは考える。
戦いの狭間で気が緩んだか、それとも久々に独りになってナーバスになっていたのか。
こんなことではいけないなと、ジュリアンは気を引き締める。
立ち止まり、自分の頬を両手でピシャリと叩き喝を入れた。
その時、遙か遠くの方からジュリアンを呼ぶ声がした。
「ジュリアーン…!」
ジュリアンが声のした方を振り向くと、真っ直ぐにジュリアンに向かって駆けてくるホープの姿があった。
「はぁ…はぁ…はぁ…あ、あし…速いっ…だ……。」
ホープはジュリアンの前まで来ると前屈みになり、両膝に両手をついて喘いだ。
かなりの勢いで走ってきたのだろう。
しばらくはそれ以上声を出せないでいた。
ジュリアンはホープの呼吸が少し落ち着くのを待って問いかける。
「ルイセと買い物じゃなかったのか?」
「ジュリ…アン…みつけて…はぁ…追いかけてきた…はぁ…はぁ…。」
ホープはまだ息を切らしている。
「何の用だ?」
ホープは体を起こして大きく息を吸い込んだ。そしてポケットから何かを取り出す。
「こ…れ……。」
「…っ!」
ホープの差し出した物を見て、ジュリアンは目を見開いて驚いた。
それはついさっき、ジュリアンが店先で眺めていた物。
あの、緑の房の付いた香水瓶だったのだ。
なぜあの香水が今ここにあるのか。
なぜそれをホープが持っているのか。
ジュリアンは驚くと共に、それをジュリアンに差し出すホープの意図が読み取れずに困惑する。
「…何のつもりだ。」
「お返し。」
「なにっ?」
「ルイセにプロミスペンダントを買って貰ったお返し。まだだったろ?」
ホープはあっさりと答える。
「あ…いや、あれはそんな…。だからって何でこんな…っ!」
「さっきお店で欲しそうに見てただろ?」
「私は別に…っ!」
「それ『カボティーヌ』って言うんだ。きっとジュリアンに似合うよ。あ、ルイセが探してる!じゃあ、また明日!」
「お、おい…っ!」
ホープは言うだけ言うと、また今来た方へと駆けて行ってしまった。
ジュリアンは動揺していた。
さっき店先を覗いていたのを見られていたのだろうか。
そしてそれと分かるほど、自分は物欲し気にこの香水を眺めていたのだろうか。
ジュリアンは混乱する頭で思い出してみる。
そんなはずはない。
あれは時間にしたらほんの僅かな時間だった。
だったら、なぜ自分に香水を贈ろうなどと思うのだろう。
自分が香水を使う姿など、自分自身でさえ想像できないというのに。
ジュリアンの混乱は一向に治まらない。
そしてふと気が付いた。
(そうか…ルイセか…。)
ルイセはこういった物が好きそうだ。
ルイセにあげたプロミスペンダントのお返しだと言っていたし、きっと一緒にいたルイセがこれを贈ろうと言い出したに違いない。
ホープはそれを聞いてさぞ困惑したことだろう。
ジュリアンには似合わないと思っても、ルイセにこれがいいと言い張られたら、止めようとは言えないはずだ。
ホープは苦虫を噛みつぶしたような顔でこの香水を買ったのだろう。
それを想像すると、ジュリアンは笑わずにはいられなかった。
ジュリアンは薄笑みを浮かべながら香水瓶を見つめた。
決して触れることはないと思っていた物が、今あっさりと自分の手の中にある。
クリスタルの輝きは決して汚れることなく、今もキラキラと光を反射させている。
さっきはこの香水瓶が自分を拒絶しているような気さえしていたのに、手にしてみれば、ずっと自分の物であったかのような気になってくるから不思議だ。
それでも自分には似合わないことに変わりはない。
そして決して使うことはないだろう。
ジュリアンの瞳に暗い陰が落ちる。
こうして手の中にあるのに、やはりそれは手を出せない物であることに変わりはないのだ。
(でも、困ったな…。使わないからって、突き返すわけにいかないし…。)
ジュリアンは深く溜息をついた。
「ジュリアンさんっ♪」
いきなり声をかけられて、ジュリアンは驚いて振り返った。
「ミーシャ!」
つい物思いに耽っていて、ミーシャがすぐ後ろに来ていたのに気が付かなかったのだ。
ミーシャは悪戯な瞳をジュリアンに向けている。
「見ィ〜ちゃった♪ お兄さまからプレゼント?いいな、いいなぁ〜。」
「いや、これはそんなんじゃ…。」
ミーシャが変な誤解をしているようなので説明しようとするが、ジュリアンが言葉を探している間に、ミーシャは矢継ぎ早に言葉を投げかけてくる。
「ごまかしたってダメですよ。エッヘッヘ〜♪アタシ、お兄さまが香水選んでること見たも〜ん。」
「あいつが?ルイセじゃなかったのか…。」
ジュリアンは意外そうな声を出す。
てっきりルイセが選んだと思っていたのだが、そうではなかったようだ。
となると、なぜホープが自分に香水を贈る気になったのかさっぱり分からない。
ジュリアンが言葉を無くしていると、ミーシャはジュリアンの手の香水を覗き込み、鼻を近づけてクンと匂いを嗅いでみる。
そして「やっぱり」といった面持ちになって言った。
「それ『カボティーヌ』でしょう? ジュリアンさんにピッタリよねぇ。」
「そうなのか?」
「あのね、ジンジャーリリーをベースにしたフローラルグリーンの香りで、新緑をイメージしててね、ジンジャーリリーにグリーンノートを加えてあるからトップノートはフローラル系だけどすぐにグリーン系に変わるの。ミドルノートはグリーンノートで、でもって、ラストノートはムスク系のアイリスが効いてるから、少女っぽくなりすぎないのよねぇ。ステキ〜♪それと、ジンジャーリリーって『無邪気な女性』を表してるんですよ。」
ミーシャに一気にまくし立てられ、ジュリアンは目を白黒させている。
聞いたこともない言葉をポンポンと出され、言っていることがさっぱり理解できない。
ミーシャがまるで別人のように見えてくる。
「ミ、ミーシャ…詳しいんだな…。」
そう答えるのが精一杯だった。
「ニャハハ〜。アタシ、お花に関することなら何だって知ってま〜す。」
「だけど、何だって私に香水なんか…。」
「だって香りって、女性を飾る最高のアクセサリーじゃないですか。その人に合った香りって、どんな高価な宝石よりもその人を輝かせるもの。でも、合った香りを見つけるのって、なかなか難しいんですよねぇ。お兄さまったら、それを探し出すなんて、すっご〜い♪ 愛だわぁ〜♪あ〜ん、ジュリアンさん、羨ましい〜っ!!」
1人で盛り上がっているミーシャに、ジュリアンとしては苦笑いだ。
ホープと自分が愛を語ったことなどないのに、どうしてそういう話になるのかと思う。
「たまたまじゃないのか…?」
「ぜ〜ったいに違う! お兄さまったら、それはそれは一生懸命選んでたもん。アタシ、お兄さまに関することも何だって知ってま〜す。」
(…あ…そうか……。)
誇らしげに言うミーシャの言葉で、ジュリアンは気が付いた。
そういえば、この少女もホープを慕っていた1人だ。
それは愛と呼ぶにはまだ幼い想いだったかもしれないが、十分に恋だった。
その想いは叶わなかったと聞いている。
だが、だからといって想うことを止められるわけではない。
ミーシャはまだホープに恋しているのだと思う。
そんな恋する少女の想い人が、別の女性にプレゼントをしていたら、そこには愛があるように見えてしまうのだろう。
ジュリアンはミーシャこそ『無邪気』が似合うなと心で微笑みながら、ミーシャに話を合わせてみることにした。
「でも、『無邪気な女性』というのはどうかな…?」
「そうですかぁ? アタシ、お兄さまにはそう見えてると思うなぁ〜。それに〜……うふっ♪」
ミーシャが急に含み笑いを始めた。ジュリアンは訳が分からずに首を傾げる。
「…それに、何だ?」
「うっふっふっ…あのね、『カボティーヌ』ってね、…クスクス。」
「…?」
ミーシャの笑いはまだ続いている。
何がそんなに可笑しいのかジュリアンにはさっぱり分からない。
ミーシャは何とか笑いを堪え、キョトンとしているジュリアンに言った。
「アタシが言ったって、お兄さまには内緒ですよ。」
「ああ…。」
ミーシャはジュリアンの耳に口を寄せて囁いた。
「あ・の・ね…『意地っ張り』って意味があるんです。」
「な…っ!」
ミーシャはジュリアンから離れ、また大笑いを始める。
「お兄さま、ホント、ジュリアンさんのことよく分かってますよねぇ〜。」
「ミーシャ!」
ジュリアンが怒るより早く、ミーシャは逃げ出していた。
走りながらミーシャはジュリアンに向かって大声で叫ぶ。
「先輩はね〜、アタシに『フルール・ド・フルール』贈ってくれたんですよ〜。アタシ〜、アリオスト先輩が待ってるから行きま〜す。さよなら〜。」
ミーシャは大きく手を振りながら、スカートを翻し、人混みへと姿を消した。
「『フルール・ド・フルール』? 『花の中の花』か…。ふっ…ピッタリだな。なんだ、あいつノロケに来たのか? …たくっ!」
ジュリアンはすっかりミーシャにからかわれる格好になってしまった。
天下にその名を轟かせるインペリアル・ナイトをからかえるのは、きっとミーシャだけだろう。
ジュリアンは笑みを漏らしながらミーシャを見送った。
ジュリアンは手の中の香水瓶をもてあそぶ。
「『意地っ張り』か…。」
確かにそうかもしれない。
肩肘張って生きてきて、無理に女であることを拒絶しようとしていた。
そうしなければ、挫けてしまいそうだったから…。
こうして手に入れた香水に魅せられつつも、頑なに意地を張り続けている。
そうしないと、自分を見失いそうで怖いから…。
ジュリアンはそっと瓶の栓に手をかけた。
決して付けることはない香水だけれども、せっかくの贈り物だ。
せめて香りぐらいは堪能しようと、そっと栓を捻って引き上げる。
僅かな抵抗が切れると、栓はスッと開いた。
それと同時に香る爽やかな香り。
(うわぁ…。)
自分が想像していた甘い香りとは違う。
もっと柔らかくて胸一杯に吸い込みたくなるような爽やかな香りだ。
香りを吸い込むと肩の力が抜け、気持ちがリフレッシュしていく。
ジュリアンはしばしその香りに酔いしれていた。
(もし自分に少女の時があったなら…こんな香りを……)
ジュリアンは自分の過去に思いを馳せてみたが、『少女』の自分など想像も付かない。
心のどこかにやはり『少女』でありたかったと思う気持ちがあるのか、そんな自分に少し寂しさを感じる。
(いや…捨てた過去を振り返るのは止めよう。)
ジュリアンは香水の栓をキュッと閉め、香水瓶をポケットにしまった。
そして口元に笑みを浮かべる。
「明日あいつに文句の1つも言ってやる!」
金色の双眸が真っ直ぐ前を見つめて輝いていた。
ジュリアンは再び花を剣に持ち替え、香水の香りを血の匂いへと変えた。
ジュリアンはまだ自分の想いに気付いていない。
ジュリアンは少女らしく生きたかったわけではない。
ただ、『彼』の前では女でありたかった。
そんな気持ちがジュリアンを香水に引き寄せた。
その想いに気付いたとき、ジュリアンは再びこの香水瓶の栓を開けるだろう。
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